2000年2月2日、太陽の昇る方角に聖山ビッグマウンテンを望む一面セージの原で全米中、世界中より集まった肌の色の違う兄弟姉妹たちと、地元長老を始めとするディネの人々、ホピの人、他の赤いクニから来た人々と共に大きな輪を作り、最後の祈りの瞬間を迎えた。その輪の中心にはセレモニーのための火が焚かれている。位山から運んできたパイプをここビッグマウンテンの長老たちに届けそして共に輪となりふかすことで一緒に運んできた全ての祈りを、僕たちを導き守ってくれた大いなる存在と聖なる大地に無事に奉納することができた。

そこにいた全員が抱き合い、握手しながら、ゆっくりと輪を開いてゆくとき、皆の笑顔に涙が光っていた。バヒも泣いていた。永い闘いのなかで、民族の親族の、家族の輪が壊れてゆきそれこそが事態をここまで進めた一つの大きな原因でもあったのだが、今日、この日この場所で移住していった者も、サインした者も、いまだ抵抗を続ける者も、かつての村の顔なじみたちが集まって輪をつくり、数年振りに手をとり合い、いがみ合いではなく笑いと涙で言葉をかわし合うことが出来たのだ。このことが、もう一度皆と一緒に聖なる場所を守ってゆく、そのための力が、希望の火が心の中に戻って来た、と長老たちをはじめ地元の人から聞かされたことがなにより僕たちにも喜びとなった。それはまたディネの内部だけではなくホピとディネとの間も複雑化、深刻化してゆく多くの問題が起きており、政治的意図で演出された "民族間の土地争い" に惑わされることなく共に聖なる大地と赤い人の伝統生活を守るために闘ったトーマス・バンヤッケを始めとするかつてのホピの伝統派長老たちのその多くはスピリットの世界へ旅立ち、いまではこのような場に姿を見ることは出来なくなった。そう、バヒや他のディネのリーダーたちから聞かされてはいたが、それでもかつてのホピ伝統派、故ジェームズ・クーツィ(20年程前ホピに寄ったカズさんに、故ダン・カチョンバの伝えるホピ物語を授けた人)の息子で、前日2月1日のデッドラインデーにビッグマウンテンのノーサイナー(サインを拒否する人)のディネと共に分断の象徴である有刺鉄線のフェンスを「こんなものがあるから我々を隔てるんだ」と、テープカットセレモニーならぬフェンスカットセレモニーをメディアを前に行ったバヒと同世代のホピ、デニス・クーツィもこの日、輪のなかに加わっていた。

そしてなにより、グレイトスピリットの願いである黒、赤、黄、白の肌の色の違う兄弟姉妹たちが天と地の間で一つの輪をつくることができた、そんな瞬間でもあった。

セレモニーのあと、有志十数名でかつての島貫上人の道場跡をバヒの案内で訪れた。いまではもう、うっすらと土の盛り上がったあとが円形に残るだけの小さな庵跡だけれど、安田行純庵主さんの導師により、全員で一本づつお線香をかつての御宝前のあったところにお供えした。

夕日が地平線を染める頃、ジュン庵主さんが話をされた。
「島貫上人は誰よりもこの地ビッグマウンテンのことを案じ、ここを離れたあとも、いつもここの行末を心配しておられた。自ずから、これからのお仕事としてもう一度、赤い人たちと一緒にご祈念を続けてゆくか、この地でのご修業より学んだこととして、日本人のもう一つの側面、侵略支配の民族の側として、その償いのために韓国、朝鮮、中国…アジアの人々と共にご祈念修行してゆくか、それらの間でとても悩んでおられた。
しかし、いつも、ここでの日々のことはうれしそうに楽しそうに、だからこそあなたたちと同じ立場で共に悲しみ苦しみの気持ちでいつも語っておられた。ジュンジ上人は誰れよりもここビッグマウンテンを愛しておられた。」

かつて独立国宣言をしたビッグマウンテン・ディネ主権国の活動の中心であったサバイバル・キャンプ。バヒもここにバスの中に寝泊りしながら世界中から集まってくる支援者たちと夢を見た。島貫潤二上人もそのサバイバル・キャンプのかたわらに自力でホーガン式の庵を立てそこを道場として、朝な夕なビッグマウンテンの平和を祈り続けた。同志として、サンダンスの兄弟として、多くの行動を共にしたバヒとジュンジ上人。ジュン庵主さんの話を聞いたバヒの心の中にも再び火が灯されたのだろうか。永年の心に刻まれた深い傷が癒されたかのような、そして一つの長い長いウォークが終わったかのような、バヒの顔にはそんな表情が伺えた。