1月23日(日)曇りのち雨
昨晩は西荻窪のホビットでお世話になりました。いろいろ用事で忙しい長老をのぞき、若いメンバーを中心に宿泊。両側の壁際に頭を向け、中央に両側から寝袋に入った足を交互に伸ばして寝る。大鹿のラウンド・ハウスもそうだけれど、狭いスペースでは、どうやったら最大限に人数を詰め込めるか考えないとあぶれる人がでてしまう。
今朝は私だけ日本山妙法寺の渋谷道場の法要へ行く。あとの人たちは、午後のバスで成田道場へ。私も夕方の勤行に間に合うことができた。ここは成田市三里塚。空港滑走路のフェンスぎわ、空港公団の敷地に建っている。
私は三里塚を訪ねるのは始めてだが、1970年前後の「三里塚闘争」という名は、そのころ20才前後だった者で知らぬ
者はいないぐらいだろう。突然の空港建設決定で農地を奪われることになった農民たちが立退きを拒否。様々な思いを持った者たちが応援に駆けつけた。その中で農民・学生側と警官側の双方に死者が出ている。なかには党派の勢力拡張のために利用しようとした者もいたかもしれないが、「空港ごときのために大切な農地をつぶして良いのか」というのが私の気持ちだった。そこには、これからの世の中のあり方への選択があった。空港も新幹線も高速道路も、決して人間を幸せにすることはないと思う。
日本山妙法寺も空港建設に反対し、滑走路予定地上にお仏舎利(ゴータマ・ブッダの遺骨)を祀って祈念していた。しかし農民とは立場がちがっていたらしい。空港はやむを得ないが軍事利用は許さないというものだった。これは農本主義的な(故)藤井日達上人の言動とはやや食い違う。本音なのか妥協の産物なのかは分からない。ただ、当時はベトナム戦争の最中で、沖縄からベトナムへ直接爆撃機が飛んでいたし、日本国内の米軍基地は補給基地になり、米軍病院には負傷兵が収用されていた。民間空港といえども、米軍のチャーター便が発着していたと思う。
結果としては、1972年4月、今井常文新東京国際空港公団総裁から(故)藤井日達上人への覚書をもって、滑走路予定地上のお仏舎利塔は撤収され、あらたに公団から用地が無償永久貸与された。現在そこで、お仏舎利塔の建立が進められている。また、その脇には、滑走路に向けて覚書の文面
が彫られた花崗岩の石碑が建てられている。約束が永久に忘れられないように。文面
の一部には以下のように記されている。「私共の建設する空港は日米安保条約下とはいえ、如何なる場合においても軍事的に利用することは一切なく…」
昨年、国会で、日米安保条約の「ガイドライン法」が成立してしまったとき、真っ先にこの覚書のことを思い出した。「ガイドライン法」は、日本の“周辺地域”でアメリカ軍が軍事行動を起すときに日本の民間施設を動員する手続きを定めている。もし、この覚書が破られるような事態になれば、私たちは大結集して空港に向かって祈らなければならないのではないか。じっさいに成田道場を訪れて、そんなことを感じてしまった。藤井上人は、国家意識の植えつけ、国連軍への派遣、アメリカ軍後方支援、憲法第9条の破棄へと、現実に戦争ができるように着々と制度を整えつつある今日を見とおしていたのかもしれない。
この成田道場から行進が出発するということも、天のはからいであるような気がする。
[文責:河本カズ・長野県大鹿村]
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