デイリーレポート



1月22日(土)晴れ

 『RAINBOW IS COMING !』思わず叫んだ。
となりにいたハルの手をつかんで、激しく歓びを伝えた。

 2000年1月22日、土曜日、お昼前、1万3千人余りのBIG MOUNTAINへの祈りを、アメリカ大統領に宛てた署名用紙にのせてアメリカ大使館にお届けする目的も無事に果 たして、虎ノ門を到着地点・日比谷公園に向けて大きく左折した時、右手の空に大きな虹がかかった。大きな歓びと共に大きな確信だった。間違いなく『虹の戦士』だったのだ。戦士―戦うと云っても、けっして殺したり傷つけたりすることなく斗うのだ。私たちは、もう知っている。偉大なる精霊の光の中で真理と未来を開く力と共に斗う。そのやり方を。歩く、祈りを大地に響かせながら、祈りになりきり、平和なココロになりきって、一歩、一歩、確実にその波動を、今のココに実現していく。

 平和は、戦って獲得できるものではなく、平和の実践によってのみ、平和の中に生かされている私達をとりもどせるのだろう。その確信をその虹は、私達に見せてくれた。ふりかえれば、1月1日に飛騨高山・位 山から出発したこの動きは、スウェット・ロッジ・セレモニーの時にサカサ虹を見せ、その大鹿村に入る1/7、そして、発つ1/10には、この地域に地震をおこした。分杭峠は、70歳ぐらいのお爺さんに『こんな冬は初めてだぞ』と云われるぐらい天候に恵まれ助けられた。八ケ岳では、80人以上のサポーターをはじめ関わってくださった皆々様の喜びの渦で、八ケ岳一巡り前のDragon Year 88年8月8日8時『いのちの祭り』以来と盛り上がった。『ようこそスピリットの森八ケ岳へ』と、八ケ岳の大いなるスピリットも、このスピリチュアル・ウォークに拍車をかけ、何度も『これで良いんだ。大丈夫!』と確信できるような、どんどんと先の道が開けていくろいうスピリチュアルな体験もした。ヨー太をはじめBig Mountain 行きを決心していく若者達が凄ましく、嬉しかった。その盛り上がりが、1/15 甲州街道一の難所、笹子峠をRUNでパイプをつながせてくれたのだ。若者、男ばかりではなく、ミユキさんが走る姿に、若い女の子達も次々と走り、上り7.8km下り5.8kmを1時間10分で走り抜いた。『ありがとう! RUNでつないでくれて。』歓しくて泣いていた。今年初めての大雪に見舞わた 1/17 は、丁度、染川のピラミッド瞑想センターでのREST DAY=雪にとじこめられて、ふりかえることなく一気に此処まできたものを整理し直し、各々が自分のコトを片づけて。そして無事、東京入りを果 たして迎えた 1/22 だったのです。日比谷公園に到着して、クロージング・サークルをつくった時、私達の真上には、大きな龍がいました。私たちには、たてがみを上げ、ウロコまでもがはっきりと見とれました。それは、守り神でもなんでもない、まぎれもなく私達自身でした。私達は、動揺することなく、より深く確信し、より大きな歓びに包まれていたのです。蛇に姿をかえていた龍は、その姿を顕わしたのです。予言どおりに、日本からホピの土地に祈り歩きつづけた今、私達のココロの中にある気づきこそがホピの石版の存在そのものなんでしょう。いつまでも、私達のスピリットを御一緒させてください。

ALL OUR RELATIONS
ありがとうございます。

2000年1月23日(日)
八ケ岳
HIRO・麻・ナギ・サチヤ

[文責:HIRO]


 200人くらい、ちょうどいい感じのカラフルなジプシーみたいな連隊が行く。渋谷警察、麻布、赤坂警察署にお世話になりました。

 朝の集合場所で、ナンベイ達のリトアニアからの「ピースライド」(自転車の一行7人)と交流したのですが、彼等も物珍し気にビデオカメラを向けて、神妙なアメリカインディアン流の日本人のセレモニー(四方と天地に祈る)などに参加してました。

 パレードの注意事項説明含めた30分の<主催者の話>の持ち時間が伸びて来て、渋谷署の課長さんが私の耳もとに「もう10時8分過ぎてます。10時出発なんだからね、早く終わらせてもらって」と。「はい、すいません」。

 とはいえ、儀式の最中に、サークルの中に割って入る気にはならなかったから、そのまま。その後2回目の催促で、気付いたみんなの方が、話は聞きながらも一部、道路に近い人たちから道に出て歩き始める。私は最後に残って、リトアニアの人の持って来たメッセージ寄せ書きに「LOVE,PEACE,JOY for EARTH」。

 後から、追って来た警視庁の担当官、「すいませんね、アメリカ大使館の方が今日もう一つ別 のデモが来るというので、重ならないように時間配分してるもんだから、課長が気を揉んでて」。この人は、デモ申請で私が2回通 った桜田門の警視庁の担当2人のうちの一人。警備連絡係。

 その時に、なぜこういうことをしてるかを、いろいろ聞かれて、ガイア仮説からなにから、レクチャーしてしまったのですが、ちゃんとメモをとり、まじめに聞いてくれて、最後に「ちゃんと完遂できるようお祈りしております」と言って、送りだしてくれた。

 私達はひとつながりの生命であり、生きて成長しているこの、かけがえのないたったひとつの惑星、地球の子供達ですと。

 もう一人の年輩の方の人も、「私だって、仕事はおまわりさんですが、うちに帰れば子供の父親です」と言って、凄く人間的な対応だった。

 そのおまわりさん、呟いていたのは「時間だからって、途中で切れないよなぁ。儀式なんだから」。どっちの決めごとを優先するのだろう?という、内心の冒険にとっての解答だった。

 子供達も歩いてる。

 長野から山梨、長期間のサポートを遂げた藤田君は、家族の歩みを適当にはずれながら車道の側のまん中あたりで、拡声器を持ちながら時々全体を見通 しては注意のアナウンスを入れる。晴々としている。

 アメリカ大使館だ。代表者はカズとアキオくんと私、先に列を外れて路地を入ってしまったらしい彼等を、見失った私は河千田さんの「大丈夫?わかる?」の声を背中に、うんうんとうなづきながら横断歩道を渡って走り出す。大使館は休館日だけど、ちゃんとものものしく数人のおまわりさんとパトカーに警備された正門。脇の守衛さんに今、二人が話している所だった。「いい感じでお話が進んでますから」と、おまわりさんに逆に諭されて、私は話には加わらずに待った。水色の袋に丸めた署名用紙の束が渡された。1万人を超える人たちの意志を、守衛さんは受け取り、御自分からこの署名活動の代表者に右手を差し出して握手を求めていた。不思議に幸せになった。

 この様子を写真を撮っているのは神戸から来た若者SHINGO。

 五日市街道を歩いていた日の休憩の時に「電話で問い合わせした者です。あの時はありがとう」と挨拶してくれた。こういう風に電話窓口だから経験できる嬉しい挨拶がある。「あ、あの時の。あ〜よかった。ちゃんと合流してた」という思いが、いくつもあった。

 虎ノ門を歩いていた。

 最後尾、TipiやPaoで羽村のキャンプを支えるなど、東京サポートに尽力してくれた健吾のバイクに荷物を載せてもらい、手ぶらで身軽になって、彼の大声の「南無妙法蓮華経」に合わせて歌うように唱えていた。なんだか急に踊りたくなって、持ってるパチカのリズムに合わせてワンビートのステップで歩き出した。その時、「あ!虹だ!!」という声に、一斉に空を見る。日輪だった。大きな日輪は、透けた空の太陽光を、淡くプリズムしている。

 日比谷公園の最後のサークルに、青空は白い綿雲のドラゴンをくれた。

 ピースパイプの儀式が中の輪で執り行われ、アメリカに行くウォーカーが進みでて、みんなの祝福。みかん、パン、ボブの新曲の訳が配られる。

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到着地点『日比谷公園』

 ありがとう、無数の協力。1万を越した署名コピーはアメリカ大使館に渡り(22日現在で14344名の署名)、元旦から22日間歩かれた道筋の、途中大鹿村スウェットは100人以上の参加者を迎えており、その朝、逆さ虹が空にかかったという。その大鹿村からは鹿の角と、鷹の羽根が、千羽鶴やメッセージの短冊などと共にアメリカに同行する。いろんな各地からのお土産。すべてを受け入れて行くウォーク隊の止まらない人たち。明日は成田へ、明後日はアメリカへ。彼等の歩みはまだまだ続くのだ。

 恵比須<縄>ベネフィットのライブも、やはり支援者たちのセッティングで時間内におさまらない盛況で、先日のほびっと村「ホピの予言」上映会にての100人参加、カンパ7万円についで、この夜も6万円以上がウォークに渡せたとのこと。

 みんながそれぞれできる形で関わって、プロジェクトの代表ハルによれば、ほとんど口座の支援金には手をつけずに国内のウォークは全行程個人の参加者の割り勘と、地元のサポートに支えられて完了できたとのことだ。

 「関わって、ほんとに良かった」という声が沢山きかれた東京パレード。これから、どんな流れになっていくか、参加したひとりひとりには、きっと明らかなヴィジョンが与えられて、それぞれの自分の場でのウォークの様な日々がまた始まってると思う。

 アメリカからの報告を楽しみにしつつ、今後もどんどん署名をアメリカ政府に送り続けながら、幅広く議論の場を持って、国際世論にのぼる問題として地球の聖地の危機を訴えて行こうと思う。

 バヒさんも、国連にたびたび文書で語り掛けをしているという。沢山の声が届けばいいと思う。自分で考え、自分で行動していく、自由なアクションが意外と自分を育てながら、地球の自己有機的な成長とシンクロしてるといいと思う。

 [文責:SAKINO・東京]