デイリーレポート



1月20日(木) 晴れ

  五日市街道、砂川にて、ランチを手伝うことになり、朝のうちに家を出て、屋久島ポンカンをリュックに背負い、立川からバス。玉 川上水を西に歩き始めた。しかし、行き過ぎたようで拝島から西武線でUターンした。
「西武砂川」下車、上水沿いに戻ったところで、!!虹色の旗!!あ!カズだ、ハルだ!やぁやぁ。

阿豆佐味天神社の手前でウォーク隊に会えました。
喜びひと塩です。

やさい村の畑には、昔デニス・バンクスも居合わせていたという、砂川闘争の時のエピソードと、日本山妙法寺の塔がありました。

 昭和20〜30年代はじめのお話。その世界では有名なそこ「砂川」がここかという感慨。多分今日のメンバーは数人を除き産まれてない、そうレクチャーのカズは言っていました。

 朝鮮戦争を経て極東アジアの緊張が高まっていた1956年、アメリカ軍立川基地が拡張されようとしました。大型ジェット爆撃機B52を発進させるためです。農地を奪われる農民、反戦に立ち上がった日本山のお坊さんや労働組合員や学生達。かれらは基地のフェンスに向かって座り込んでいました。青年デニスは、アメリカ空軍の兵士として、フェンスの反対側にいた訳です。もし農民たちが突入してきたら発砲するようにという命令を受けていたそうです。

 にらみ合いの間に割って入っった日本の警察。何をしたかと言うと、日本人の方の列に暴力を働いて逮捕してく。お坊さんの頭に警棒が振り下ろされて血まみれになって倒れる。そういう様子をデニスは鮮明に覚えていて、後にインディアン闘争に立ち上がって行く。

 こんにち、それから50年、半世紀を過ぎたのどかな、2000年1月の太陽まばゆい昼時に、そこに、輪を作り、改めて、平和を思いました。正否を簡単に言えないから、言えない所に、宿題は残ります。

 時間というものの、そのエピソードのあると無いとでは、明らかに人の意識はかわったろうと思われる出来事。記憶があり、歴史がそこで語られて、初めて供養にもなったり、思い出されて改めて語り継がれる物語り。編み合わされようとして迎え出るドラマがある。歩くことが、編むことのようだと思いながら、机の上だけのウォークをしてきた、東京インフォメーション係は、そこで、初めて一緒に歩けたことを、その地に立ってみられたことも、水にゆかりの玉 川上水ぞいを、吉野川の住民投票を控えて、いのちの水系を辿れたことを満足してます。ありがとう。

 [文責:SAKINO・東京]

玉川キャンプ朝焼け

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砂川玄題塔